その他旅行
東北旅行(2009年・3日目)
天候不良
3日目もあいにくの雨、私が行った旅行でこんなに雨が降ったのは月に35日雨が降るといわれている屋久島観光の時以来です。
一緒に行ったツアー客に
雨男、
雨女がいたのか。
まぁ冗談はさておいて、午前7時50分バスでホテルを出発。
40分ほどで最初の目的地、
会津・鶴ヶ城に到着。
鶴ヶ城は、福島県
会津若松市追手町にあった
城で
築城は1384年。
地元と観光名所としての呼び名は一般的に鶴ヶ城(つるがじょう)で、地元以外では会津若松城と呼ばれることが多いようです。
文献史上では黒川城(くろかわじょう)、会津城とされることもあります。
国の
史跡としての
指定名称は、若松城跡(わかまつじょうあと)です。
その城も1874年に
解体され、会津市民の
要望などもあって
本丸は1960年(昭和35年)までには
現在の
形状に
復旧されました。
現在の天守は1965年(昭和40年)に
鉄筋コンクリート造により外観復興再建されたもので、内部は若松城天守閣
郷土博物館として公開されている5層5階の天守閣です。
ちなみに鶴ヶ城の
歴代の主な
城主は
蘆名氏、
伊達氏、
蒲生氏、
上杉氏、加藤氏、
松平氏・
保科氏。
バスを降りると、すぐに
本丸に移動しました。
桜が咲いていた時期は残念ながら既に終わっていて
葉桜になった青々とした緑が
印象的でした。
入場料を払い、すぐに天守閣の中に入り展示物を観覧しました。
展示物は1層1階に会津の
歴史、2層2階に
武器・
武具・
印籠等、3層3階に
戊辰戦争資料、4層4階に保科公画、白虎隊画の資料が展示され、5層5階が
展望台になっていて眺めは抜群でした。
このように天守閣には、数多い展示品が置かれており、じっくり見るとすると、とても短時間では見ることが出来ず、時間に余裕のあるときに訪れた方がいいような気がしました。
鶴ヶ城を後にし、今度は飯盛山に移動。
飯盛山は、福島県会津若松市の中心部から少し東側にある標高314mの山。
戊辰戦争(会津戦争)時、会津藩の16、7歳の少年たちで構成される白虎隊士中二番隊が、戸ノ口原の戦いでの奮戦空しく撤退する際、この地で鶴ヶ城周辺の
武家屋敷等が燃えているのを
落城と
錯覚し、もはや帰るところもないと20人が
自刃した地です。
その20人の内の
飯沼貞吉ただ一人の少年が助かり、この事件のことを伝え白虎隊の悲劇が今に伝わっています。
この少年は
生涯会津に戻ることなく、
仙台で77歳で没しました。
その後、さざえ堂を観覧。
さざえ堂は、高さ16.5m、六角三層のお堂です。正式名称は「円通三匝堂」(えんつうさんそうどう)といいます。
当時飯盛山には正宗寺(しょうそうじ)というお寺があり、その住職であった僧郁堂(いくどう)の考案した建物です。
その後飯盛山の戸ノ口堰洞穴を見学。
戸ノ口堰洞穴は、猪苗代湖から会津地方へ水を引く為に掘られた堰で元和年間から元禄年間まで工事が行われ、天保3年から3年間は会津藩士である佐藤豊助が中心となり飯盛山の中腹からトンネルを掘り進みました。
戊辰戦争の祭は白虎隊士中二番隊20名が鶴ケ城(会津若松城)に戻る際通った洞穴としても有名で、この後飯盛山から城下町が炎上しているの見て自刃しています。
飯盛山の見学が終わり、近くのお土産店2階で華麗なる白虎隊の踊りを
披露してもらいました。
私は今回飯盛山を訪れ白虎隊の悲劇を肌で感じ、当時の様子が目に浮かんでくるようでした。
実際日本は今ずいぶん平和になり生活しやすい環境になりました。
でも昔は戦うのがあたり前の時代で多くの若い尊い命が奪われているので、何のためにと思ってしまいます。
でも実際日本で起こったことが今もなお世界のどこかでおこっていることは事実で大変悲しい問題です。
改めて平和を願う気持ちがわいてきました。
飯盛山を後にし、最後の目的地の昼食を兼ねた世界のガラス館・猪苗代
地ビール館に向かいました。
目的地に向かう途中から、内容は伏せておきますが、ちょっとしたトラブルがあり、気分が
ブルー状態での観光だったので、昼食も美味しく感じず、周辺の美しい
猪苗代湖をカメラに収めることもなく、ただただ呆然とする間に時間だ過ぎ、この地に嫌な思い出だけを残してきました。
今回の夢にみた初めての東北旅行は、天候には恵まれませんでしたが、満足のいけるものでした。
次行く東北旅行は青森、秋田、岩手あたりを観光できればと思っています。
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