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丸亀団扇(まるがめうちわ)
丸亀団扇の歴史
慶長5年(1600年)、
丸亀の旅僧が九州で一泊したお礼に団扇の作り方を教えたのが、熊本来民団扇の始まりと言われるように、丸亀団扇の技は、江戸初期までに既にしっかりと打ち立てられていたものと考えられます。
寛永10年(1633年)、金毘羅大権現の
別当、金光院住職が、 金毘羅参りの土産物に、男竹丸柄で金丸印入りの渋団扇を考案。
天明年間(1781〜88年)には、 丸亀京極藩士が豊前中津藩から女竹丸柄団扇の技術を習い、 藩も藩士の内職に強く勧めたお陰で団扇作りが急速に広がりました。
江戸から帰国後も藩士達は団扇作りに精を出し、町民も技を身につけ、代表的な
地場産業に発展し、 日本一の団扇産地の
基礎を
築きました。
天保年間(1830〜43年)、丸亀港は金毘羅船の
発着で賑わい、土産物の団扇も飛ぶように売れました。
江戸後期の安政年間(1854〜59年)には、 生産量も増え、年間80万本数えるようになっていました。
明治に入り、奈良の団扇に習った男竹平柄団扇が、塩屋町を中心に勢い良く広ろがり始めます。

現在の丸亀団扇。
現在、全国的に有名な団扇は男竹平柄です。
平柄団扇は丸柄に比べて製造が簡単で、 大量生産にも適し、現在でも平柄が丸亀団扇の
主流を占めています。
平柄団扇の導入で大量生産が叶うようになったのに加え、大正初期には、脇竹次郎が骨の切りこみに使う「切り込み機」 と広げた穂骨を左右から支える鎌を通す穴をあける「穴あけ機」を発明し 、うちわ作りを容易なものにしました。
しかし、これを独占する事も無く自由に使用を認めた為、生産量は
飛躍的に
増大し、全国生産の80%から90%を占めるようになり、日本一のうちわ処を
形成しました。
江戸初期に盛んになった丸亀のうちわ作りは、代表的な地場産業として発展を続け、現在の生産量は年間約8300万本全国シェアの約90%を誇り、平成9年5月に国の伝統工芸品に指定されました。

詳細なマメ知識
寛永10年(1633)、金毘羅大権現の別当、金光院住職
宥睨は「金毘羅宮の
御紋である。天狗の
羽団扇にちなむ@印入りの『渋うちわ』を金毘羅参りのお土産として作ろう」と当時の讃岐
藩主に勧め大和の大村藩から熟練者を招いて製造を始めたのが『男竹丸亀うちわ』の起源です。
天明年間(1781〜89)丸亀藩主京極高朗公の『江戸留守居組』・瀬山四郎兵衛重嘉は、隣合の九州中津藩の
足軽達が女竹丸柄うちわ作りをしている所を見かけ、厳しい財政状況の打開策として「丸亀藩でのうちわづくり・技術の習得」を
奨励しました。
次々に団扇作りの
習得者を
国詰のものと交代せて、団扇工を
養成し、藩の
殖産興業として取り入れていきました。