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砥部焼き(とべやき)
砥部焼の起源
砥部では、遥か昔から焼物が盛んで、奈良時代(8世紀頃)に書かれた「
正倉院文書(しょうそういんもんじょ)」にも記されています。
砥部は『
中央構造線』と呼ばれる大きな
断層の上に位置し焼物の材料となる良質の
陶石(とうせき)が豊富に取れ。
また燃料になる
アカマツも多く、登り釜を造るのに適した傾斜地もあり、焼物には最適な場所と言えます。
しかし、現在広く知られている『砥部焼』の始まりはずっと後の江戸時代中期1770年代のことです。

砥部焼きの歴史
当時財政難に苦しんでいた大洲藩主・加藤泰侯が、財政立て直しのために家臣の加藤三郎兵衛光政に命じ、門田金治と杉野丈助に
磁器業を
起業させたのが始まりでした。
大きな期待と、願いが込められた計画でしたが、最初から失敗の連続で、
他の藩から招かれた5人の
陶工達も、全員帰国してしまいました。
しかし、焼物に対する情熱を捨てなかった丈助は、たった一人で
試行錯誤を続け、起業開始から2年9ヶ月後の安永6年(1777年)12月10日、最初の磁器焼成に成功しました。
文世元年(1818年)には砥部川上流で色が白く使い安い陶石が発見され、今までの灰色っぽい陶器から砥部焼の特徴の一つである輝くような白い陶器が作られるようになりました。
そして陶工達による技術・設備の改良で、砥部の磁器業は大きな発展を遂げ19世紀中ごろには藩の重要な
財源になったそうです。

砥部焼きがシカゴ世界博覧会に出品
明治に入り、向井和平がクリーム色を帯びた淡黄磁の
焼成に成功。
明治26年(1893年)淡黄磁の花びんをシカゴ世界博覧会に出品し、見事一等賞を獲得しました。
砥部焼は
工芸品として海外でも好評を博し輸出が盛んになりました。
戦後の発展と近年の砥部焼き
そして戦後のさらなる
改良・機械化により質・量、共に
飛躍し現在では
窯元(かまもと)が約100軒、従業者数500人年間生産額25億円の町を支える一大産業になりました。
また近年では、観光資源としても注目されています。 昭和51年、国の伝統的工芸品の指定を受け、昭和59年には『砥部焼まつり』が始まりました。
『砥部焼伝統産業会館』では展示された作品や資料から砥部焼の詳細な歴史や陶工たちの数々のドラマを知ることができます。
そして、楽しみながら砥部焼が体験できる『砥部焼陶芸創作館』、砥部焼の板を敷き詰めた遊歩道『陶工の道』、杉野丈助の功績を称え記念碑が建てられた『陶祖の丘』など全国の砥部焼ファンが訪れています。
