水引きの起源は、7世紀の始め頃で、遣隋使が中国からの贈り物に麻で紅白に染めた紐状の物がかけられていたのが始まりとされています。
700年余りの伝統を持つ菊間瓦、松山城や道後温泉本館にも使用されています。現在瓦は全国に広がり年間1000万枚の瓦が出荷されています。菊間町での、瓦造りは瀬戸内海に面した自然が良好であったり、立地条件、瓦造りにかかせない燃料、材料に恵まれた自然的条件、そして、農間地に人手を豊富に手配できた人的条件によって発展してきました。
香川の漆工芸は藩政時代、藩主の保護と理解のもとに発展し、幾多の名工、巨匠を世に出してきました。そして、昭和24年には商工省から重要漆工集団地として指定され、また51年2月には「蒟醤(きんま)存清(ぞんせい)彫漆(ちょうしつ)後藤塗、象谷塗(ぞうこくぬり)」等五つの技法が、四国では初めて国の伝統工芸品の指定を受けています。
慶長5年(1600年)、丸亀の旅僧が九州で一泊したお礼に団扇の作り方を教えたのが、熊本来民団扇の始まりと言われるように、丸亀団扇の技は、江戸初期までに既にしっかりと打ち立てられていたものと考えられます。寛永10年(1633年)、金毘羅大権現の別当、金光院住職が、金毘羅参りの土産物に、男竹丸柄で金丸印入りの渋団扇を考案。
砥部では、遥か昔から焼物が盛んで、奈良時代に書かれた「正倉院文書」にも記されています。砥部は『中央構造線』と呼ばれる大きな断層の上に位置し焼物の材料となる良質の陶石が豊富に取れ。また燃料になるアカマツも多く、登り釜を造るのに適した傾斜地もあり、焼物には最適な場所と言えます。
日本ほど和紙を生活に取り入れた国はなく日本は、紙と木の文化とさえ言われて来ました。宇摩地方の手漉き和紙は、宝歴(1751年〜1763年)に始まるとされています。明治30年代から大正2年までが最も盛んな時期で、宇摩地方全域で約765戸(川之江市内で350戸)を数えるほどでした。
ハゼの実を細く潰して蒸して、それを圧搾して採取したものを木蝋と言い、和蝋燭(わろうそくは)この木蝋で作ります。先ず、竹串に和紙と燈芯草の芯を巻きつけ次に、40℃〜45℃位の温度に溶かした蝋を素手ですくい上げて、芯を転がしながらなすりつけ、乾かし、これを何回も繰り返し少しずつ大きくします。
泉正さんは16歳頃から丁稚奉公を始め、傘作りを63年間続けております。傘は戦国時代(1493年頃)には使用されていたらしいが当時の傘はとても高く、百姓や町民にとっては、中々手が出ないものの一つであった。本格的に傘が普及し始めたのは明治時代以降となりますがその頃は洋傘の普及も始まり、和傘は次第に利用されなくなったらしい。
愛媛の伝統工芸・桜井漆器が生まれたのは今から400年も昔、江戸時代の頃になります。桜井漆器のふるさと今治市は、目の前に広がる瀬戸内海のおかげで、昔から船の往来が盛んでした。江戸時代に腕舟と呼ばれる舟で庶民向けの漆器を中心に四国、中国、九州方面へ行商した腕屋さんが、桜井で製造を開始したのが始まりだといわれています。